正義のアルゴリズム
映っていたのは、痩せた青年――エヌ氏だった。
人気のない路地裏で、数人の不良に取り囲まれ、地面に額をこすりつけさせられている。命令されるまま泥水をすすり、嘲笑を浴びるその姿は、あまりに惨めで、あまりに扇情的だった。
動画は火薬庫に投げ込まれた火種のように拡散した。
「胸糞悪い」
「こいつら人間じゃない」
「絶対に許すな」
怒りは正義の顔をして増殖し、タイムラインを埋め尽くしていった。
そして数日後、事態は次の段階へ進む。
匿名アカウントが現れ、不良たちの個人情報を一つずつ、丁寧に、まるで供物でも並べるように晒し始めたのだ。
本名、住所、家族の勤務先、過去の補導歴、消したはずの古い写真。
群衆は歓声を上げた。
“特定班”を名乗る者たちが雪崩れ込み、ネット空間はたちまち公開処刑場へと変わる。
結果は苛烈だった。
不良たちのアカウントは炎上の末に閉鎖され、一人は学校を追われ、一人の実家の商店は執拗な嫌がらせに耐えきれず潰れた。
主犯格の男は、追い詰められ、自ら首を吊った。
そのたびに、ネットは酔ったように沸いた。
「因果応報」
「スカッとした」
「これが正義だ」
誰もが、自分は正しい側にいると信じて疑わなかった。
その一部始終を、エヌ氏は薄暗い部屋で眺めていた。
モニターの光だけが顔を照らしている。
彼は感情のない目で、暗号資産口座の残高を確認した。桁がひとつ増えている。
「今回の“企画”も、上出来だ」
独り言のように呟き、裏サイトのスポンサーから届いたメッセージを開く。
最高のエンターテインメントでした。
群衆の怒りをここまで精密に誘導するとは見事です。
次回の“復讐劇”にも出資します。
エヌ氏は、ほんのわずかに口元を緩めた。
あの不良たちは、闇バイト掲示板で集められた駒にすぎない。
依頼主の顔も、本名も知らない。匿名の仲介アカウントから指示を受け、指定された場所で、指定された台本どおりに振る舞っただけだ。
「顔にはモザイクをかける」
「あとでネタばらし動画を出して、一緒にバズらせる」
代理人はそう約束していた。
だが、モザイクは外された。
ネタばらし動画が投稿されることはなかった。
その後に待っているのが、個人情報を売られ、本当に社会から抹殺される末路だということも、彼らは知らされていなかった。
生き残った連中が何を叫ぼうと、もう遅い。
手元に残ったのは、解読不能なチャットの断片だけ。依頼主へ辿る証拠にはならない。
そもそも、動画の中で愉快そうに暴行に加担していた人間の弁明など、誰が聞く。
正義に酔った群衆は、罪の濃淡には興味がない。
欲しいのは、断罪の快感だけだ。
エヌ氏は笑わない。
彼が見つめているのは、不良たちではなかった。
その向こう側、画面越しに蠢く無数の群衆だった。
再生数。
引用。
怒りの投稿。
拡散率。
滞在時間。
数字が跳ねるたび、スポンサーからの支払いも跳ね上がる。
エヌ氏が作ったのは、単なる炎上商法ではない。
人間の正義感そのものを燃料にして回る、精巧な収益エンジンだった。
憤った者ほど、彼に金を払う。
義憤に震えた者ほど、深く装置に組み込まれる。
誰もが自分を加害者ではなく裁定者だと思い込みながら、無自覚のまま彼の口座を潤す共犯者になっていく。
エヌ氏は新しいウィンドウを開いた。
次の標的候補のプロフィールが、いくつも画面に並ぶ。
「次は、誰を悪にする?」
静かな部屋で、その声だけがやけに澄んで響いた。
正義の群衆は、つねに飢えている。
事実ではなく、敵に。
救済ではなく、処刑に。
そして今日もまた、新しい生贄の血の匂いを探している。

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